2010年度 北海道考古学会 研究大会が開催されました

研究大会は平成22年4月24日、北海道大学学術交流会館2階講堂を会場として開催された。今大会は『オホーツク文化とは何か』をテーマに、5名の発表者による研究成果の発表と、その後のディスカッションが行われた。




基調講演「オホーツク文化とはなにか」において天野哲也氏は、5~13世紀に展開した文化が生業・集落形態・交易の面でいかなる特徴をもっていたかを概括し、サハリン南部における前期十和田式期から中期以降どのように発展しつつ南下・拡散をとげ、さらに変容と消滅したかに言及した。ただし、オホーツク文化の形成過程、移動・拡散の要因などについては、サハリンの様相が不明瞭であることなどにより、研究者間の見解に少なからぬ相違があることから、今大会での議論に期待したいとした。

 臼杵 勲氏は「アムール流域・サハリンとオホーツク文化」において、斉一制が指摘されるオホーツク文化であるが、実際は領域や文化要素の面で一貫する点がとらえにくいことを指摘した。領域が分散・点在する前期に比べ、大きく拡大する中期では土器の器形・組成にも劇的な変化がみられるが、それは靺鞨系文化との関わりを示すものであり、背景に各地の集団が靺鞨系集団との関係を意図的に強めた結果ではなかったかと指摘した。後期には交易の減少など、その関係が緩やかになり、各集団本来の地域色を強めることとなったことが、サハリンや北海道における多様な地域性をうながしたと考えを提起した。斉一制が指摘されることの多いオホーツク文化が地域的・時間的に多様な要素から成っており、それは周辺地域との関連性の有無や強弱を反映している可能性が高く、今後の研究はこの点に視座をすえることが必要との展望を示した。

 「北海道東部のオホーツク文化集落について-最近の調査成果から-」の発表を行った熊木俊朗氏は、網走市最寄貝塚と北見市トコロチャシ跡遺跡および同遺跡オホーツク地点の大規模な調査の成果をもとに、道東部における刻文期から貼付文期の住居と墓制の地域差、時期差について検討を行った。オホーツク文化では住居の建て替えが特徴的であるが、入れ子状や重層、拡張などいくつかのパターンが読み取れる。十和田式期では建て替え例は僅少で、刻文期から沈線文期ではいく例かがみられるが、そこに何らかの傾向は読み取れない。貼付文期では入れ子状縮小・重層・拡張・建て替えなしなどすべての例があるが特定のパターンは読み取れないという。むしろ遺跡ごとに建て替えのあり方に差があり、時期を超えて踏襲されているのではないか、それは拠点的集落とそうでない集落という性格の違いに起因している可能性を指摘した。最寄貝塚にみられる住居と墓の数の不均衡は、当遺跡が他の集落の構成員も埋葬する場であったのではないか、墓の配置は時期ごとのまとまりが看取されず、刻文期から貼付文期まで一定した利用のあり方が維持されたらしいと推測した。

 「オホーツク文化人骨の形態特徴と生活誌復元」をテーマとした石田 肇氏は、1980年代以降オホーツク文化人骨の出土が増加し、各地で幅広い年齢層の資料が得られたことにより、オホーツク文化人の形態の把握と時期差・地域間の比較研究、アイヌ集団へのオホーツク文化集団の影響などに迫ることが可能となったとし、その成果の一部を紹介した。形態学の分野では、頭蓋骨の形態小変異の分析研究から、サハリンやオホーツク海沿岸域のアイヌに北東アジア地域に由来するオホーツク文化人の形質的影響があることがわかった。また、骨に残る変形や病変の所見より、当時の生業活動など日常的な作業・行動のあり方を復元することが可能となり、考古学資料とのクロスチェックをもとにオホーツク文化人の生活誌をより詳細に解明できる見通しをもつにいたったとした。また、安定同位体分析によって食生活を復元し、北海道北部と東部では摂取した動物性タンパク質の内容が異なっていた可能性が示唆され、これまでの貝塚の発掘調査から得られた当時の食のメニューを再考する必要性が提起されたといえる。

 増田隆一氏は「遺伝子からみたオホーツク文化人の特徴と起源」をテーマに、ミトコンドリアDNAの分析研究から明らかになった成果を発表した。オホーツク文化人78体から得られた遺伝情報を16タイプに分類したが、10タイプがニブフやウリチなどの現代アジア集団と共有することが判明した。また、5タイプがアイヌの16%に共有されており、オホーツク文化人とアイヌが遺伝的に関連する部分があることが明らかとなった。このことより、オホーツク文化人が現在アムール川下流域に居住する集団に遺伝的に近く、またこの集団からオホーツク文化人を介してアイヌへの遺伝子流動があったらしいことが推測された。 さらに、北海道縄文人にないハプロタイプYがアイヌに認められ、オホーツク文化人と現アムール川下流域の集団に高頻度であることより、ここでも北方集団からアイヌへの遺伝子流動の可能性が高まったという。

 今後、サハリンやアムール川下流域、沿海地方の古代人の遺伝子比較分析によって、以上の成果をさらに検証する必要があることを強調した。



 その後のディスカッションは、菊池俊彦氏を司会に進められた。靺鞨文化がオホーツク文化に影響を与えたというが、アムール川下流域では靺鞨文化が認められない。形質人類や遺伝子分析によって、オホーツク文化人はウリチやナナイなどのバイカル型モンゴロイドに近いとされたが、オホーツク式土器が鞨系文化との関連を示唆する器形や組成をもつ点とは矛盾するのではないか。道北からオホーツク海沿岸や道東域に分布を拡大したのは人口爆発が要因とされるが、前期末における人口の急増は想定しにくいのではないか。最寄貝塚における蕨手刀の大量の出土の意味するものは何か。オホーツク文化人はなぜ千島列島に進出したのか、海獣狩猟なかんずくラッコ猟のためか。日本海地域への進出はなぜ島づたいだったのか、沿岸は続縄文人の領域だったからか。など、あらためて多くの疑問点、問題点が提起され、今後の研究課題として再認識された。



 道民カレッジ連携講座でもあった今回の研究大会は、多くの聴講者の参加のもと、午前10時から午後5時の長時間にわたって興味ある研究発表と白熱した討論に終始した。5名発表者の方々、司会の菊池先生、大会運営関係者、会場となった北海道大学に心より御礼申し上げます。

(文責 高橋 理)




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