北海道考古学会だより 19号

1984.1.31
池田町出土の須恵器について 
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池田町出土の須恵器について  大沼 忠春・和泉田 毅


1.はじめに
 ここに紹介する須恵器は、昭和43年に山崎徹氏(現女満別高校教頭)によって池田遺跡A地区から一括採集されたものである。この地区からは他に擦文土器も採集されていて、山崎氏は、擦文土器に須恵器の伴う例が多いことから、この資料も擦文文化の時代のものと解され、身と蓋との胎土がやや異なるとみなされたところから、この二者は別々に組合せられるものとして報告されている。(1)
 大沼はこの報告に接して、この須恵器が、この遺跡で採集されている口縁部に刻文のある擦文土器と伴うにはあまりにも古い形態のものであると思い、おそらくは、より先行する時期に持込まれた可能性があるものと考えた。そこで、和泉田が実測図を作成し、以下の所見をまとめ、大沼が関連する諸問題について若干検討することにした。
2.所見
 底部外面は平らで、体部は直線的に外上方に立ちあがる。受部は外上方にのび、端部を丸くおさめる。たちあがリは内上方にのび、端部を鋭角的におさめる。底部外面はヘラ切りで未調整を思わせる。体部外面の底部側の一部にヘラ削り調整を施す。他は内外面とも丁寧な横ナデを施している。たちあがりはハリツケ手法によるものとおもわれる。たちあがりの端部は受部端部よりわずかに上方にあるが、部分的に、逆に下方にあるところもある。たちあがりが簡略化矮小化されつつも、きわめて丁寧に調整を施している。
 天井部外面はわずかに丸味をもち、体部は内湾し、口縁端部を丸くおさめる。体部、口縁部の内外面とも丁寧な横ナデ調整を施している。
 坏・蓋とも外面の底部、天井部との境には、わずかながら丸味を帯びた稜をもつが、これは調整の際に出来たものである。ともに焼成良好、堅緻で、内外面とも暗青灰色を呈するが、坏外面の一部に暗灰色を呈する部分もみられる。蓋・坏とも、口縁端部、受部端は丸昧をもち、また坏のたちあがりは全体に鋭角的である。両者とも全体に小ぶりで、底部外面、天井部外面は、ヘラおこしによる粘土の残りが付いているなど、調整が粗雑であるのに対して、体部、口縁部、受部、たちあがりにはきわめて丁寧な調整が施されている。
 以上の観察諸要素から、当坏・蓋は7世紀初頭から中葉にかけて、それも中葉に近い時期のものと思われる。
3.若干の問題
 まずこの須恵器はいつこの遺跡にもたらされたのだろうか。これについては手懸がないけれども、7世紀初頭から中葉頃の年代に持込まれたものであれば甚だ興味深い。この池田遺跡は利別川の左岸に広大な広がりを示しておリ、ここからは縄文時代早期から擦文時代におよぶ遺物が発掘され、あるいは採集されている。それらの内で、須恵器の年代に相当する頃のものにはC地区から出土した続縄文時代の終末の北大Ⅱ式(2)がある。
 さて、この北大Ⅱ式の段階に、このような須恵器のもたらされる可能性はあるのだろうか。前後の事情から、その可能性が全くないのであれば、資料的価値を失うことは言うまでもない。ところが、北大式の古い段階、北大I式に伴うとみなされる須恵器が恵庭市柏木B遺跡で出土していて、(3)さらにここでは同時期頃のガラス小玉も認められる。ガラス小玉は、この北大I式に先だつ後北C2式の時期に、松前町(5)や網走市(6)にみられ、さらにより古い続縄文前期末の後北C1式(7)の段階で、浦幌町(8)や国後島(9)にも及んでいた。北大I式の時期はほぼ5世紀から6世紀にかけてと考えられるが、東北地方北部へ古墳文化が浸透した段階とみられ、岩手県に前方後円墳の角塚が造られたのもこの頃かと思われる。柏木B遺跡出土のものと同様な須恵器が青森県からも出土している。(10)
 北大Ⅱ式に伴う本州から渡来した資料は、若干の鉄器がそれかと思われる程度で、あまり知られていなかった。ただ、石狩マ;老マ;振出土とされる、透しのある台をもつ高杯のような器形を呈し、縄文の施された資料が、特異な土師器として紹介されていた。(11)この土器は、須恵器の高杯の比較的古手のものをまねたように思われ、そのような目でみると、その土器についている北大Ⅱ式に特有の左下リの斜行縄文も須恵器の櫛目を模したものかと思われてくるほどのものである。
以上のような例を参考にすると、北大Ⅱ式に、ここで紹介したような須恵器が伴うことはあり得ないことではないように思われる。北大Ⅱ式は6世紀から7世紀にかけての頃のものとみなされることになろうか。この後の所謂北大Ⅲ式の段階では、土器の器面調整に刷毛目を残すものが多くなり、擦文土器となるが、この7世紀後葉頃から鉄製太刀などが持込まれ、擦文文化へと転換するのであろう。(12)
 続縄文時代の終末の時期が7世紀初頭から中葉とみなされ、その頃に本州方面との交渉があったとすると、それはどのような社会的背景のもとになされたのだろうか。前後の事情からみて遇然の漂着などによるものばかりではないであろう。7世紀中葉には北陸から東北地方の日本海ぞいに、柵や蝦夷の郡が設置されたと記録されている。新潟県には淳足柵(13)が出来、ここには和人の柵戸が置かれ、それまでの蝦夷は柵養の蝦夷となっていたらしい。北海道方面では、山尾幸久氏が「蝦夷の首長二人がシリベシという所を『政所』にするよう申請し、自らが統率する人問集団を郡とし『群領』になっている」と記す(14)如くであリ、東北北部にも淳代、津軽などの郡が設けられている。これらの蝦夷の郡が成立したことは、その地の蝦夷の和人化への指向が強く、それまでに本州文化をかなり取り入れていたことを示しているのではなかろうか。この須恵器の示す年代は北海道の蝦夷杜会にあっても、和人化への第一歩を踏み出す胎動の時期であったと考えられる。
 本資料は伴出関係が不明であるけれども、この種の資料は今後注意すべきものと思われるので、ここに紹介した次第である。資料を提供された池田町教育委員会、御教示を戴いた山崎徹氏、木村英明氏、後藤秀彦氏、佐藤訓敏氏、大矢義明氏、種々お世話を戴いた長沼孝氏をはじめ同僚諸氏に謝意を表するものである。

(1) 池田町史編纂委員会(1978)『第1編 池田町の先史文化』PP.17-18
(2) この遺跡の北大Ⅱ式の一部については擦文の初期とみなす見解もある。
字田川洋(1976)「'70年代擦文文化の研究」『どるめん』22,同(1977)「擦文文化」『北海道考古学講座』
(3)1個については明確に報告されているが、さらに坏形の須恵器の小片も見出されている(木村英明氏の御教示による)。
(4) ほぼ4世紀頃東北南部まで初期の古墳文化が進出した頃、東北地方北部から北海道全域に広がっていた土器。東北地方北部における後北C2式の分布は戦後山内清男氏が発見して以来、着々と資料が増加しており、初期の土師器に対応する時代に東北北部では後北C2式を受け入れていたとみなされるほどである。東北地方から北海道に及ぶ、天王山、
赤穴式前後の土器の分布圏が、古墳時代の初期に南北へ分裂し、土師器と後北C2式とを使用する地域が生じたように思われる。
山内清男(1964)「日本先史時代概説」「日本原始美術」1
(5) 大塚和義(1964)「北海道の墓址」『物質文化』3
(6) 畠山三郎太(1966)「北海道の馬蹄状竪櫛について」『北海道考古学』2
(7) ほぼ3世紀代に東北地方から北海道にかけて末期弥生式のまとまりが存在した頃、ほぼ北海道全域に広がっていた土器。最近新潟県にまで及んでいることが報告された。
新渇県教育委員会(1983)『内越遺跡』
(8) 石橋次雄他(1975)『十勝太若月-第3次調査-』
(9) 名取武光(1940)「北海道国後島古釜府に於ける後期薄手縄文土器期の竪穴様墳墓」「考古学」1l-11
(10)青森県教育委員会(1973)『むつ小川原原発予定地内埋虐文化財分布調査報告書』、鈴木克彦(1977)「青森県出土の奈良時代以前の須恵器」『考古風土記』2
(11)名取武光(1939)「北海道の土器」『人類学・先史学請座』10、同(1968)「北海道の土器」『アイヌと考古学』1
(12)擦文土器として現在一般的に理解されているものは体部に刻線文様の施された土器で、口縁部にも刻み目がつけられている。これらの口縁に刻文のある土器はオホーツク式の刻文土器の施文と関連して生じたもので、この時期よりやや遅れて広まったものと考えている。
(13)文明4年紀7月条に出る都岐沙羅柵について、山田秀三氏が、山形県にあったもので、北海道にあるトキサラの地名と対比して、「沼の耳」、「沼のくびれ込んだ処に、即ちトキサラを利用して柵が築かれたのではなかろうか」と論ぜられている。この書紀の一連の記事で、小乙下を示すとみられる位二階を授けられた都岐沙羅柵造が欠名となっているのはなぜなのであろうか。この柵が淳足柵の直前に記載されているのはなぜなのだろうか。私には都岐沙羅柵の記事と淳足柵の記事は同一の事実を二種の資料で示したことによるのではないかと疑われる。都岐沙羅は本来のアイヌ語地名であり、淳足がその和訳であって、都岐沙羅柵造は大伴君稲積であったのではなかろうか。淳足柵という名称は大化3年紀にも出るが、和名に変ってからの、おそらく大伴君系の家記にでも由来する名称ではなかろうかと考えている。
山田秀三(1976)「アイヌ語地名・アイヌ語の古さ」『北海遺考古学』12、同(1982)『アイヌ語地名の研究』1、PP.155~156、坂本太郎(1964)「纂記と日本書紀」「日本書紀と蝦夷」「日本古代史の基礎的研究』上
(14)山尾幸久(1977)『日本国家の形成』(岩波新書)P196


追記 最近、田才雅彦氏の、新資料の紹介を主とした「北大式土器」(北奥古代文化14)が出た。既に森田知忠氏が名づけたモヨログループ、北大I式、同Ⅱ式、同Ⅲ式をI~Ⅳの4類とし、北大I式をA式、同Ⅱ式(シュンクシタカラ式)をB式、石橋孝夫氏が命名したワッカオイ式をC式と称する幼稚な暴論である。どうか御高覧戴き、御叱責を賜りたい。
 これら諸群の細分は今後の課題であり、資料の観察、分類、文献引用にも難点はある。貫通孔は突瘤の脱落したもので、ウトロ例を漏す。
(文責 大沼)

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